こんにちは、イチです。
里山に引っ越してきてからいくつかの出来事があり、それについて感じたことや考えたことがあります。
今回記事にしていくのはそのうちの1つですね
マチナカで暮らしているときには感じなかった部分です…。
まぁ年齢的な部分もあると思いますので、すべての方、あるいはすべての場所でこうであるとは言いませんが。
考えが深まったのは事実なため、記事にしています。
家を訪ねてくる近所の方
引っ越したての時に顕著だったのですが、ものを持って来つつ訪ねてきてくださる方が非常に多いです。
というより、特定の方が繰り返し来られるという感じですが
会話は実に他愛のないもの。
引っ越してきてくれて嬉しい
慣れた?
大変なことも多いでしょう
ゴミは○○に持っていけば良いよ
などなど。
そういった会話はいろいろと知ることもでき、ありがたく感じています
ちょっと違和感があるなーと思ったのは「伝達事項がある場合」など、目的を持って来られた場合です。
家に訪ねてこられて、妻が対応する場合がありますよね。
※以下、グレーの吹き出しは同一人物です
旦那さん、おられますか?
今仕事で出てるんです…伝えておきますよ
と妻が伝えても、
あ、分かりました、旦那さんに話した方が良いので…また来ます
と言われるケースが数回。
その話を妻から聞き、
あ、そうなの? じゃあ今度は休みだから直接話聞くね
という話になり、私が話を聞いてみると、
今度○日に、○時から役員会があるので出席してください
とか
○日の草刈りの件ですが…
と、言っちゃあれですが大した話じゃない。
こんな場合もありました。
今旦那はいないんです
あ、そうなんですか…電話番号伺っているし、電話してみようかな
いや、仕事中で電波が届くかわからないので…私が聞きますよ(食い下がり)
いや、大丈夫です、メモ書きます
と、妻が食い下がっても話をしてくれず、妻にメモを渡すこともあったんです。
役員交代の場について
うちの集落は2月に役員交代がありました。
本当は3月にするようですが、3月はバタバタすることが多いため2月にしてしまう、とのこと。
それも
旦那さんだけ来てくれれば…
という話で聞いていました。
しかし妻としては
しっかり挨拶しておいた方が良くない? 子供2人もいてやかましくなるし
という立場。
その意見には同意だったので、私から集落の長に電話し、会の最初に1分ほど、妻と子を紹介する時間を設けていただきました。
一応妻から電話の前に「きちんと挨拶させてください」という話を直接したようなのですが、
いやいや、いいです。旦那さんだけで大丈夫ですよ
という話になっていたとか。
その役員交代の場は当然男性ばかり。
1人だけ女性がいたのですが、落ち着かずいそいそと飲み物を入れたり、食べ物や茶菓子を運んだりされていました。
て、手伝った方がいいのか…?
と思いましたが、私以外の男性陣はドカッと座って微動だにせず。
妻の話からそういう雰囲気なのかもしれないと思っていたので準備はしていましたが、実際にその場に遭遇すると少々居心地が悪い…
その場で結局私はお手伝いしませんでした。
別の日の来客
昼食後の時間でした。
私がお皿などを洗っていて、妻が来客対応。
旦那さん、おられる?
あ、今お皿洗っていて…
…ん?
という会話に。
妻的には
「なんで旦那が皿洗ってるの?」みたいな雰囲気を感じたとか。
まぁ実際はそうではないかもしれませんが、ここまでの雰囲気からだと妻がそう感じるのも無理はない
男性が社会的な役割・女性は家庭的な役割?
里山に引っ越してきて猛烈に感じるようになったのが、男性と女性の役割分担です。
≪男はこう、女はこう≫ みたいなやつです
いわゆるステレオタイプといわれるそれですね。
最近の価値観から言えば単に否定の対象だと思うんですが、これについて2点感じたことがありまして…
以下でつらつらと書いていこうと思います。
里山での生きづらさ
性別で役割分担が決まっているので、性別からはみ出た行動がしにくい部分があります。
例えば男性が皿を洗っていて、女性が別のことをしているような状況。
普通のようでいて、見る人が見れば普通に見えないんですよね
他にも、男の人が育休を取っていて、女性が普通に働きに出ている、なんていう状況は極めて変な感じに捉えられてしまうように思います。
ただ、これらは世間体を気にする場合です。
最近はそこまで干渉してくるような方もおられないのでは…?
自分たちが信念を持って振る舞っていれば特に問題ないかなと。
「家庭」を組織として考えた場合、男性と女性で役割が完全に分かれていると、その脆弱さが何かのタイミングで露呈してしまうようにも思います。
里山での生きやすさ
枠組みがあるという楽さ、生きやすさもあると感じたんです。
選択肢が多ければ幸せか、といわれたらそうでないと思うんですよ
ジャムの実験やベビーカーの話が有名ですよね。
スーパーで24種類と6種類のジャムを試食販売し、売り上げの違いを調べてものです。
24種類のジャムを置いた場合、試食率は60%でしたが、購入率は3%。
一方6種類のジャムを置いた場合、試食率は40%で購入率は30%。
選択肢が多い方が購入する人が少なかったんです。
ベビーカーの元ネタは大和証券のCMでしたが、こちらもあまりに種類が多いと購買に繋がらない、というものでした。
これらは「物を買う」という場合ですが、「生き方」についても同じだと思うんですよね。
「どう生きてもいい」
「どんな仕事をしてもいい」
「どんな相手と結婚してもいい」
こういわれると、自分や自分の人生について明確なビジョンを持っていない人は困惑してしまうと思うんですよね
「親の仕事を継ぐ」
「先祖代々ここで生きてきたから、ここで生きる」
「近所の人に紹介された幼馴染と結婚する」
こういう生き方は確かに縛られているかも知れませんが、少なくとも「どうすれば良いか悩む」必要はありません。
楽な部分もあるんですよね。
「自由」には「責任」が伴いますから、多くが決まっていれば責任も少なくて済みます。
人とのつながりも強いですから、近所の人や企業がセーフティネットとして役割を果たす場面もあるように思います。
まとめ
以上のように、良いところも悪いところもあるのが里山暮らしかなという実感があります。
結局はその人にどちらが合うか、ということになってくるんじゃないでしょうか
あるいは、人生のステージを進めていく中で変化もしていくように思います。
マチナカでの生き方にせよ里山での生き方にせよ、メリットとデメリットが存在しています。
両方の価値を自分の視点で決めつけるようなことはせず、柔軟に考えていくことが良いよなーと感じた最近でありました。